小生、デザイナー&ライターの生涯フリーランサーだったゆえ、若い時分から
仕事で写真を撮って来た。昨年春に映画「写真家ソール・ライター 急がない人生~」
を観たことから「路上スナップ」を始めた。
左上はソール・ライター似顔絵。右上は最初に撮った「路上スナップ」。
以来、1968年の「プロヴォーク」関連書などを読み始め、
森山大道の〝擦過〟が気になり〝その陰に寺山修司あり〟と推測した。
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そもそも中平卓馬は雑誌「現代の眼」編集者(26)で、寺山修司(29)に小説を依頼。
実験小説『あぁ、荒野』を2年間連載。
同時期、寺山は土方巽中心の「六人のアバンギャルドの会」に東松照明(31)と参加。
昭和40年(1965)、東松は「写真100年、日本人による写真表現の歴史」展に、
中平と多木浩二を編集員に任命。
翌年「アサヒカメラ」で寺山修司の連載エッセーに中平と森山大道が交互に写真担当。
同年、寺山は俳句誌連載に森山に写真を依頼。
だが中平は自分を写真家へ誘った東松の〝事大主義〟に反抗し「アレ・ブレ・ボケ」を発表。
これを高梨が「気配をも撮る」、多木が「まずたしかさの世界を捨てた」と賛同し、
昭和43年(1968)に中平・多木浩二・高梨豊によって『プロヴォーク』を創刊。
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森山は寺山と雑誌「スキャンダル」創刊画策中で、同誌2号から参加。
3号に荒木経惟が参加し、吉増剛造が「写真のための挑戦断章」を発表。だがその3号で廃刊。
この辺を探って行くなかで<森山の「擦過」>に、寺山修司の影響ありが確信へ向かった。
この灼熱下に我家の冷房装置故障で、脳みそ溶解ながら、宮沢賢治の詩に「擦過」を発見した。
大正11・12年の心象スケッチ『春の修羅』の「カーバイト倉庫」に〝擦過〟があった。
寺山修司が宮沢賢治に無関心の筈はなく、
この〝擦過〟を自身の短歌・俳句のきっかけの言葉として、
また写真家のスナップにも共通するとして彼は東松へ、東松は森山大道へ口伝のように伝わった。
しかし「プロヴォーク」メンバーらは、次第に東松の「事大主義」、
寺山の論理や主義の「うっとうしさ」から彼らと距離を置き始めた。
中平の盟友・森山も〝擦過〟が、彼らから口伝されたとは口が裂けても言い難くなる。
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当初の森山は、ジャック・ケルワック『路上』に影響され、日本中を歩き回っていた頃の写真
について~行き過ぎる「擦過」の際につけられた「擦過傷」と言っていた。
また詩人・吉増剛造も~「写真には途方もないある刹那が立ち現れてくる。
それと巡り合うとき、その閃光が頭脳中のどの辺りかを〝擦過〟し、擦過傷を生む」と記し、
さらにこうも記していた。「その刹那は計算でも考えても出会うものではなく咄嗟に現れる。
それは対象物とレンズの間に、無限に豊かなものが入ってくる瞬間。そこでシャッターを押せ」
しかし森山は「プロヴォーク」メンバーらの東松、寺山離れに遠慮したか、
「〝擦過〟なる言葉が、なんとなくぴったりくる感覚で、たまたま使っていたけれど~」
「プロヴォークの頃は、感覚されるものや細胞次元で無数にキャッチされてくるものを含めて、
それらとの交感するすべてを〝擦過〟と言っていた。それは一瞬の擦れ違いという意ではなく
〝一期一会〟と言うか~」。
「〝擦過〟しているという意識のなかで、相対的にこぼれて行くものが、
ものすごく多いことが気になり始めて、またどこかロマンチックになってしまう気がして、
次第に〝擦過〟と言えなくなってきた」などと言い始めた。
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彼はかくして次第に「記念、記録、記憶」と言い始め、ノーファインダー風撮影をやめるが、
やはり〝擦過〟から逃れられなかった。
「被写体を探している感じはなく、歩いていると全身の細胞がバーッと外に向かって
なびいて行く。〝来い来い〟と引き寄せられる感じで、撮るより撮らされている感じ。
ほぼ恋愛関係。だから立ち止まって構図を計算して待っているなんてこともない」
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女性詩人に詩を書く際の緊張感とスナップの時の緊張感について尋ねられ~
「写真なんか撮りたくないも、外出時にポケットにカメラを入れるから、
撮る気もなくパパッとシャッターを切れば、そのうちにヒートアップし、
自分が次第にカメラになっている。
すると急に外界からいろんなものが飛び込んで来て、こっちもセンサーになって無茶苦茶
見えてくる。ある種トランス状態が30~40分続く。一種の錯覚だろうが、
ざわざわと細胞が総毛立ってある種の浮上感。だが、ある時間でそれもふいと終わる」
考えるより〝歩く人=森山〟ならではの自己分析だが、
彼には〝擦過〟が身体に染みついていることが伺える。
詩人・吉増剛造は〝擦過〟をさらに進化させて、こう語っている。
「道元に〝朕兆未萌(ちんみょうみもう)〟の言葉がある。ものの兆しが現れる前に、
何かが立ってくる気配に感覚を研ぎ澄ませてシャッターを切る」
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ソール・ライターも森山、吉増と同じようなことを言っている。
「まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている」
カメラを持って歩かざるを得ない、シャッターを切らざるを得ない気持ちを言っている。
「私の好きな写真は何も写っていないように見えて、片隅で謎が起きているような写真だ」
「時折見逃してしまうんだ。大切なことは今起きているという事実を~」
共によく言われる日常の中のスリットに非日常の魔が潜んでいることを言っている。
さらにはスナップは、日蓮の「南無妙法蓮華経」題目にまで通じるか~
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さて、あたしにとっての「路上スナップ」は、隠居の「お散歩カメラ」です。
散歩に出ないと、スマホの「歩数計」が、
「オイ、最近歩いていねぇぞ。豚になりたくなければ歩け歩け」とメッセージしてくるから、
「お散歩(カメラ)」をやめるわけにはいかない。
明日、やっと新クーラー設置と相成った。ほぼ20万円也。
灼熱地獄で脳みそ溶解中で、
頭が冷えたら、書き直してみます。